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とも、または仮諦とも云うなり。次に「如是性」とは、我が心性を云うなり。これを報身如来とも、または般若とも、または空諦とも云うなり。三に「如是体」とは、我がこの身体なり。これを法身如来とも、または中道とも法性とも寂滅とも云うなり。されば、この三如是を三身如来とは云うなり。この三如是が三身如来にておわしましけるをよそに思いへだてつるが、はや我が身の上にてありけるなり。かく知りぬるを、法華経をさとれる人とは申すなり。
この三如是を本として、これよりのこりの七つの如是はいでて、十如是とは成りたるなり。この十如是が、百界にも千如にも三千世間にも成りたるなり。かくのごとく多くの法門と成って八万法蔵と云わるれども、すべてただ一つの三諦の法にて、三諦より外には法門なきことなり。
その故は、百界というは仮諦なり。千如というは空諦なり。三千というは中諦なり。空と仮と中とを三諦ということなれば、百界・千如・三千世間まで多くの法門と成りたりといえども、ただ一つの三諦にてあることなり。
されば、始めの三如是の三諦と終わりの七如是の三諦とは、ただ一つの三諦にて、始めと終わりと、我が一身の中の理にて、ただ一つ物にて不可思議なりければ、「本と末とは究竟して等し」とは説き給えるなり、これを「如是本末究竟等」とは申したるなり。始めの三如是を本とし終わりの七如是を末として十の如是にてあるは、我が身の中の三諦にてあるなり。この三諦を三身如来とも云えば、我が心身より外には善悪に付けてかみすじばかりの法もなきものを。されば、我が身がやがて三身即一の本覚の如来にてはありけることなり。
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(019)十如是事 | 正嘉2年(’58) | 37歳 |