すでに仏道を成じたり」の文。一切衆生開会の文は、「今この三界は、皆これ我が有なり。その中の衆生は、ことごとくこれ吾が子なり」。外典開会の文は、「もし俗間の経書、治世の語言、資生の業等を説かんも、皆正法に順ぜん」文。兜率開会の文、人天の開会するところの文、しげきゆえにいださず。
この経を意得ざる人は、経の文にこの経を読んで、人天に生ずと説く文を見、あるいは兜率・忉利なんどにいたる文を見、あるいは安養に生ずる文を見て、「穢土において法華を行ぜば、経はいみじけれども、行者、不退地に至らざれば、穢土にして流転し、久しく五十六億七千万歳の晨を期し、あるいは人・畜等に生まれて隔生する間、自らの苦しみ限り無し」なんど云々。あるいは「自力の修行なり。難行道なり」等云々。これは、恐らくは爾前・法華の二途を知らずして、自身癡かの闇に迷うのみにあらず、一切衆生の仏眼これを閉ずる人なり。
兜率を勧めたることは、小乗経に多し。少しは大乗経にも勧めたり。西方を勧めたることは、大乗経に多し。これらは皆所開の文なり。法華の意は、兜率に即して「十方仏土の中」、西方に即して「十方仏土の中」、人天に即して「十方仏土の中」云々。法華経は、悪人に対しては、十界の悪を説けば悪人五眼を具しなんどすれば、悪人のきわまりを救い、女人に即して十界を談ずれば、十界皆女人なることを談ず。いずれにも法華円実の菩提心を発さん人は、迷いの九界へ業力に引かるることなきなり。
この意を存じ給いけるやらん、法然上人も、一向念仏の行者ながら、選択と申す文には、雑行・難行道には法華・大日経等をば除きたる処も有り。委しく見よ。また恵心の往生要集にも、法華経を除きたり。たとい法然上人・恵心、法華経を雑行・難行道、末代の機に叶わずと書き給うとも、日蓮は
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(017)一代聖教大意 | 正嘉2年(’58)2月14日 | 37歳 |