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されば、実をもってさぐり給うに、法華已前にはただ権者の仏のみ有って、実の凡夫が仏に成りたりけることは無きなり。煩悩を断じ九界を厭って仏に成らんと願うは、実には九界を離れたる仏無き故に、往生したる実の凡夫も無し。人界を離れたる菩薩界無き故に。ただ法華の仏の、爾前にして十界の形を現して、所化とも能化とも、悪人とも善人とも外道とも云いしなり。実の悪人・善人・外道・凡夫は、方便の権を行じて真実の教えとうち思いなしてすぎしほどに、法華経に来って、「方便にてありけり。実には見思・無明も断ぜざりけり。往生もせざりけり」なんど覚知するなり。
一念三千は別に委しく書くべし。
この経には二妙あり。釈に云わく「この経はただ二妙のみを論ず」。一には相待妙、二には絶待妙なり。相待妙の意は、前の四時の一代聖教に法華経を対して爾前とこれを嫌い、爾前をば当分と云い法華を跨節と申す。絶待妙の意は、一代聖教は法華なりと開会す。
また法華経に二つのことあり。一には所開、二には能開なり。開示悟入の文、あるいは「皆すでに仏道を成じたり」等の文、一部八巻二十八品六万九千三百八十四字、一々の字の下に皆妙の文字あるべし。これ能開の妙なり。この法華経は、知らずして習い談ずるものは、ただ爾前の経の利益なり。
阿含経開会の文は、経に云わく「我がこの九部の法は、衆生に随順して説く。大乗に入るることを本となす」云々。華厳経開会の文に云わく「一切世間の天・人および阿修羅は、皆謂えり。今の釈迦牟尼仏は」等の文。般若経開会の文は、安楽行品の十八空の文。観経等の往生安楽開会の文は、「ここにおいて命終して、即ち安楽世界に往く」等の文。散善開会の文は、「一たび南無仏と称えば、皆
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(017)一代聖教大意 | 正嘉2年(’58)2月14日 | 37歳 |