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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

 この文は、法華経の五十展転の第五十の功徳を釈する文なり。仏苦ろに五十展転にて説き給うこと、権教の多劫の修行また大聖の功徳よりも、この経の須臾の結縁、愚人の随喜の百千万億勝れたること経に見えつれば、この意を大師譬えをもって顕し給えり。好堅樹と申す木は、一日に百囲にて高くおう。頻伽と申す鳥は、幼きだも諸の大小の鳥の声に勝れたり。権教の修行の久しきに諸の草木の遅く生長するを譬え、法華の行の速やかに仏に成ることを一日に百囲なるに譬う。権教の大小の聖をば諸鳥に譬え、法華の凡夫のはかなきを㲉の声の衆鳥に勝るるに譬う。
 妙楽大師、重ねて釈して云わく「恐らくは、人謬って解せる者、初心の功徳の大なることを測らずして、功を上位に推り、この初心を蔑る。故に、今、彼の行浅く功深きことを示して、もって経力を顕す」文。末代の愚者、「法華経は深理にしていみじけれども、我が機に叶わず」と云って、法を挙げ機を下して退する者を釈する文なり。
 また、妙楽大師、末代にこの法の捨てられんことを歎いて云わく「この円頓を聞いて崇重せざるは、良に近代に大乗を習う者の雑濫に由るが故なり。いわんや、像末は情澆く信心寡薄にして、円頓の教法蔵に溢ち函に盈つれども、しばらくも思惟せず、便ち冥目に至る。いたずらに生じ、いたずらに死す。一に何ぞ痛ましきや。ある人云わく『聞いて行ぜずんば、汝において何ぞ預からん』。これはいまだ深く久遠の益を知らず。善住天子経のごとくんば、『文殊は舎利弗に告ぐ。法を聞き謗を生じて地獄に堕つるは、恒沙の仏を供養する者に勝る。地獄に堕つといえども、地獄より出でて還って法を聞くことを得』と。これは、仏を供し法を聞かざる者をもって校量とせり。聞いて謗を生ずる、なお