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凡夫なり。ただ上の定ばかりを修する人は、戒を持たざれども、定の力に依って上の戒を具するなり。この定の内に、味禅・浄禅は、三界の内、色界・無色界へ生ず。無漏禅は、声聞・縁覚と成って見思を断じ尽くし、灰身滅智するなり。慧はまた苦・空・無常・無我と我が色心を観ずれば、上の戒・定を自然に具足して、声聞・縁覚とも成るなり。故に、戒より定は勝れ、定より慧は勝れたり。しかれども、この三蔵教の意は、戒が本体にてあるなり。されば、阿含経を総結する遺教経には戒を説けるなり。
この教えの意は、依報には六界、正報には十界を明かせども、依報に随って、六界を明かす経と名づくるなり。また正報に十界を明かせども、縁覚・菩薩・仏も声聞の覚りを過ぎざれば、ただ声聞教と申す。されば、仏も菩薩も縁覚も灰身滅智する教えなり。
声聞について七賢・七聖の位あり。六道は凡夫なり。
一、五停心
三賢 二、別想念処
智ということなり 三、総想念処
七賢 一、煗法
二、頂法
四善根 三、忍法
四、世第一法
この七賢の位は、六道の凡夫より賢く、生死を厭い、煩悩を具しながら煩悩を発さざる賢き人なり。
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(017)一代聖教大意 | 正嘉2年(’58)2月14日 | 37歳 |