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(016)
主師親御書
建長7年(ʼ55) 34歳
釈迦仏は、我らがためには、主なり、師なり、親なり。一人してすくい護ると説き給えり。阿弥陀仏は、我らがためには、主ならず、親ならず、師ならず。しかれば、天台大師これを釈して曰わく「西方は仏別にして縁異なり。仏別なるが故に隠顕の義成ぜず、縁異なるが故に子父の義成ぜず。またこの経の首末に全くこの旨無し。眼を閉じて穿鑿せよ」と。
実なるかな、釈迦仏は中天竺の浄飯大王の太子として、十九の御年、家を出で給いて、檀特山と申す山に籠もらせ給い、高峰に登っては妻木をとり、深谷に下っては水を結び、難行苦行して御年三十と申せしに仏にならせ給いて一代聖教を説き給いしに、上べには華厳・阿含・方等・般若等の種々の経々を説かせ給えども、内心には法華経を説かばやとおぼしめされしかども、衆生の機根まちまちにして一種ならざるあいだ、仏の御心をば説き給わで、人の心に随い万の経を説き給えり。
かくのごとく、四十二年がほどは心苦しく思しめししかども、今、法華経に至って、「我が願、既に満足しぬ。我がごとくに衆生を仏になさん」と説き給えり。久遠より已来、あるいは鹿となり、あるいは熊となり、ある時は鬼神のために食われ給えり。かくのごとき功徳をば、法華経を信じたらん
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(016)主師親御書 | 建長7年(’55) | 34歳 |