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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

 すべて一代八万の聖教、三世十方の諸の仏菩薩も、我が心の外に有りとはゆめゆめ思うべからず。しかれば、仏教を習うといえども、心性を観ぜざれば、全く生死を離るることなきなり。もし心外に道を求めて万行万善を修せんは、譬えば、貧窮の人、日夜に隣の財を計えたれども、半銭の得分もなきがごとし。
 しかれば、天台の釈の中には「もし心を観ぜざれば、重罪滅せず」とて、もし心を観ぜざれば、無量の苦行となると判ぜり。故に、かくのごときの人をば、「仏法を学して外道となる」と恥じしめられたり。ここをもって、止観には「仏教を学すといえども、還って外見に同ず」と釈せり。しかるあいだ、仏の名を唱え、経巻をよみ、花をちらし、香をひねるまでも、皆、我が一念に納めたる功徳・善根なりと信心を取るべきなり。
 これによって、浄名経の中には「諸仏の解脱を衆生の心行に求めば、衆生即菩提なり、生死即涅槃なり」と明かせり。また「衆生の心けがるれば土もけがれ、心清ければ土も清し」とて、浄土といい穢土というも、土に二つの隔てなし、ただ我らが心の善悪によると見えたり。衆生というも仏というも、またかくのごとし。迷う時は衆生と名づけ、悟る時をば仏と名づけたり。譬えば、闇鏡も磨きぬれば玉と見ゆるがごとし。只今も、一念無明の迷心は磨かざる鏡なり。これを磨かば、必ず法性真如の明鏡と成るべし。
 深く信心を発して、日夜朝暮にまた懈らず磨くべし。いかようにしてか磨くべき。ただ南無妙法蓮華経と唱えたてまつるを、これをみがくとはいうなり。