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を打ちしかども、後には掌をあわせて失をくゆ。提婆達多は釈尊の御身に血をいだししかども、臨終の時には「南無」と唱えたりき。「仏」とだに申したりしかば地獄には堕つべからざりしを、業ふかくしてただ「南無」とのみとなえて「仏」とはいわず。今、日本国の高僧等も「南無日蓮聖人」ととなえんとすとも「南無」ばかりにてやあらんずらん。ふびん、ふびん。
外典に云わく「未萌をしるを聖人という」。内典に云わく「三世を知るを聖人という」。
余に三度のこうみょうあり。
一には、去にし文応元年太歳庚申七月十六日に、立正安国論を最明寺殿に奏したてまつりし時、宿屋入道に向かって云わく「禅宗と念仏宗とを失い給うべしと申させ給え。このことを御用いなきならば、この一門より事おこりて他国にせめられさせ給うべし」。
二には、去にし文永八年九月十二日申時に、平左衛門尉に向かって云わく「日蓮は日本国の棟梁なり。予を失うは日本国の柱橦を倒すなり。只今に自界反逆難とてどしうちして、他国侵逼難とてこの国の人々他国に打ち殺さるるのみならず、多くいけどりにせらるべし。建長寺・寿福寺・極楽寺・大仏・長楽寺等の一切の念仏者・禅僧等が寺塔をばやきはらいて、彼らが頸をゆいのはまにて切らずば、日本国必ずほろぶべし」と申し候い了わんぬ。
第三には、去年文永十一年四月八日、左衛門尉に語って云わく「王地に生まれたれば身をば随えられたてまつるようなりとも、心をば随えられたてまつるべからず。念仏の無間獄、禅の天魔の所為なることは疑いなし。殊に真言宗がこの国土の大いなるわざわいにては候なり。大蒙古を調伏せんこ
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(009)撰時抄 | 建治元年(’75) | 54歳 | 西山由比殿 |