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て余教へうつりはてて、一生さて法華経へ帰り入らざらん人は、悪道に堕つべきこともありなん。
仰せについて疑わしきこと侍り。実にてや侍るらん、「法華経に説かれて候」とて智者の語らせ給いしは、「昔、三千塵点劫の当初、大通智勝仏と申す仏います。その仏の凡夫にていましける時、十六人の王子おわします。彼の父の王、仏にならせ給いて一代聖教を説き給いき。十六人の王子もまた出家して、その仏の御弟子とならせ給いけり。大通智勝仏、法華経を説き畢わらせ給いて定に入らせ給いしかば、十六人の王子の沙弥、その前にして、かわるがわる法華経を講じ給いけり。その所説を聴聞せし人、幾千万ということをしらず。当座に悟りをえし人は不退の位に入りにき。また法華経をおろかに心得る結縁の衆もあり。その人々、当座・中間に不退の位に入らずして三千塵点劫をへたり。その間、またつぶさに六道四生に輪回し、今日、釈迦如来の法華経を説き給うに、不退の位に入る。いわゆる舎利弗・目連・迦葉・阿難等これなり。なおなお信心薄き者は、当時も覚らずして未来無数劫を経べきか。知らず、我らも大通智勝仏の十六人の結縁の衆にもあるらん。
この結縁の衆をば、天台・妙楽は名字・観行の位にかないたる人なりと定め給えり。名字・観行の位は、一念三千の義理を弁え、十法成乗の観を凝らし、能く能く義理を弁えたる人なり。『一念随喜』『五十展転』と申すも、天台・妙楽の釈のごときは、皆、観行五品の初随喜の位と定め給えり。博地の凡夫のことにはあらず。
しかるに、我らは末代の一字一句等の結縁の衆、一分の義理をも知らざらんは、あに無量の世界の塵点劫を経ざらんや。これひとえに、理深解微の故に、教は至って深く機は実に浅きがいたすところ
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(001)唱法華題目抄 | 文応元年(’60)5月28日 | 39歳 |