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「あに中国に法を失ってこれを四維に求むるにあらずや。しかるにこの方に識ることある者少なし。魯人のごとし」等云々。身毒国の中に天台三十巻のごとくなる大論あるならば、南天の僧、いかでか漢土の天台の釈をねがうべき。これあに、像法の中に法華経の実義顕れて、南閻浮提に広宣流布するにあらずや。
答えて云わく、正法一千年、像法の前の四百年、已上仏の滅後一千四百余年にいまだ論師の弘通し給わざる一代超過の円定・円慧を漢土に弘通し給うのみならず、その声、月氏までもきこえぬ。法華経の広宣流布にはにたれども、いまだ円頓の戒壇を立てられず。小乗の威儀をもって円の慧・定に切りつけるは、すこし便りなきににたり。例せば、日輪の蝕するがごとし、月輪のかけたるににたり。いかにいおうや、天台大師の御時は大集経の読誦多聞堅固の時にあいあたって、いまだ広宣流布の時にあらず。
問うて云わく、伝教大師は日本国の士なり。桓武の御宇に出世して、欽明より二百余年が間の邪義をなんじやぶり、天台大師の円慧・円定をせんじ給うのみならず、鑑真和尚の弘通せし日本の小乗の三処の戒壇をなんじやぶり、叡山に円頓の大乗別受戒を建立せり。この大事は仏の滅後一千八百年が間の身毒・尸那・扶桑、乃至一閻浮提第一の奇事なり。内証は竜樹・天台等にはあるいは劣るにもや、あるいは同じくもやあるらん。仏法の人をすべて一法となせることは、竜樹・天親にもこえ、南岳・天台にもすぐれて見えさせ給うなり。総じては、如来御入滅の後一千八百年が間、この二人こそ法華経の行者にてはおわすれ。
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(009)撰時抄 | 建治元年(’75) | 54歳 | 西山由比殿 |