174ページ
か彼らの頂を照らし給うべき。地神いかでか彼らの足を載せ給うべき。
提婆達多は仏を打ちたてまつりしかば、大地揺動して火炎いでにき。檀弥羅王は師子尊者の頭を切りしかば、右の手、刀とともに落ちぬ。徽宗皇帝は法道が面にかなやきをやきて江南にながせしかば、半年が内にえびすの手にかかり給いき。蒙古のせめもまたかくのごとくなるべし。たとい五天のつわものをあつめて鉄囲山を城とせりとも、かなうべからず。必ず日本国の一切衆生、兵難に値うべし。されば、日蓮が法華経の行者にてあるなきかは、これにて見るべし。
教主釈尊、記して云わく「末代悪世に法華経を弘通するものを悪口・罵詈等せん人は、我を一劫が間あだせん者の罪にも百千万億倍すぎたるべし」ととかせ給えり。しかるを、今の日本国の国主・万民等、がいにまかせて、父母・宿世の敵よりもいたくにくみ、謀反・殺害の者よりもつよくせめぬるは、現身にも大地われて入り、天雷も身をさかざるは不審なり。日蓮が法華経の行者にてあらざるか。もししからば、おおきになげかし。今生には万人にせめられて片時もやすからず、後生には悪道に堕ちんことあさましとも申すばかりなし。
また、日蓮法華経の行者ならずば、いかなる者の一乗の持者にてはあるべきぞ。法然が「法華経をなげすてよ」、善導が「千の中に一りも無し」、道綽が「いまだ一人も得る者あらず」と申すが法華経の行者にて候べきか。また弘法大師の云わく「法華経を行ずるは戯論なり」とかかれたるが法華経の行者なるべきか。経文には「能くこの経を持つ」「能くこの経を説く」なんどこそとかれて候え。「よくとく」と申すはいかなるぞと申すに、「諸経の中において最もその上に在り」と申して、「大日
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
---|---|---|---|
(009)撰時抄 | 建治元年(’75) | 54歳 | 西山由比殿 |