等の諸国等も、皆、大蒙古国の皇帝にせめられぬ。今の日本国の壱岐・対馬ならびに九国のごとし。闘諍堅固の仏語、地に堕ちず。あたかも、これ大海のしおの時をたがえざるがごとし。
これをもって案ずるに、大集経の白法隠没の時に次いで、法華経の大白法の日本国ならびに一閻浮提に広宣流布せんことも疑うべからざるか。彼の大集経は仏説の中の権大乗ぞかし。生死をはなるる道には法華経の結縁なき者のためには未顕真実なれども、六道・四生・三世のことを記し給いけるは寸分もたがわざりけるにや。いかにいわんや、法華経は、釈尊は「要ず当に真実を説きたもうべし」となのらせ給い、多宝仏は「真実なり」と御判をそえ、十方の諸仏は広長舌を梵天につけて「誠諦」と指し示し、釈尊は重ねて無虚妄の舌を色究竟に付けさせ給いて、後の五百歳に一切の仏法の滅せん時、上行菩薩に妙法蓮華経の五字をもたしめて、謗法・一闡提の白癩病の輩の良薬とせんと、梵帝・日月・四天・竜神等に仰せつけられし金言、虚妄なるべしや。大地は反覆すとも、高山は頽落すとも、春の後に夏は来らずとも、日は東へかえるとも、月は地に落つとも、このことは一定なるべし。
このこと一定ならば、闘諍堅固の時、日本国の王臣とならびに万民等が、仏の御使いとして南無妙法蓮華経を流布せんとするを、あるいは罵詈し、あるいは悪口し、あるいは流罪し、あるいは打擲し、弟子・眷属等を種々の難にあわする人々、いかでか安穏にては候べき。これをば愚癡の者は呪詛すとおもいぬべし。法華経をひろむる者は、日本の一切衆生の父母なり。章安大師云わく「彼がために悪を除くは、即ちこれ彼が親なり」等云々。されば、日蓮は、当帝の父母、念仏者・禅衆・真言師等が師範なり、また主君なり。しかるを、上一人より下万民にいたるまであだをなすをば、日月いかで
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(009)撰時抄 | 建治元年(’75) | 54歳 | 西山由比殿 |