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の滅後一千八百余年が間、身毒・尸那・一閻浮提にいまだなかりし霊山の大戒、日本国に始まる。
されば、伝教大師は、その功を論ずれば、竜樹・天親にもこえ天台・妙楽にも勝れておわします聖人なり。されば、日本国の当世の東寺・園城・七大寺、諸国の八宗、浄土・禅宗・律等の諸僧等、誰人か伝教大師の円戒をそむくべき。かの漢土九国の諸僧等は、円定・円慧は天台の弟子ににたれども、円頓一同の戒場は漢土になければ、戒においては弟子とならぬ者もありけん。この日本国は、伝教大師の御弟子にあらざる者外道なり、悪人なり。
しかれども、漢土・日本の天台宗と真言の勝劣は、大師、心中には存知せさせ給いけれども、六宗と天台宗とのごとく公場にして勝負なかりけるゆえにや、伝教大師已後には、東寺・七寺・園城の諸寺、日本一州一同に、真言宗は天台宗に勝れたりと上一人より下万人にいたるまでおぼしめしおもえり。しかれば、天台法華宗は伝教大師の御時ばかりにぞありける。この伝教の御時は、像法の末、大集経の多造塔寺堅固の時なり。いまだ「我が法の中において闘諍言訟して白法隠没せん」の時にはあたらず。
今、末法に入って二百余歳、大集経の「我が法の中において闘諍言訟して白法隠没せん」の時にあたれり。仏語まことならば、定めて一閻浮提に闘諍起こるべき時節なり。伝え聞く、漢土は三百六十箇国二百六十余州はすでに蒙古国に打ちやぶられぬ。華洛すでにやぶられて、徽宗・欽宗の両帝、北蕃にいけどりにせられて、韃靼にして終にかくれさせ給いぬ。徽宗の孫・高宗皇帝は、長安をせめおとされて、田舎の臨安行在府におちさせ給いて、今に数年が間京を見ず。高麗六百余国も新羅・百済
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(009)撰時抄 | 建治元年(’75) | 54歳 | 西山由比殿 |