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天皇にさずけたてまつりて、東大寺の大仏を立てさせ給えり。同じき御代に、大唐の鑑真和尚、天台宗と律宗をわたす。その中に律宗をば弘通し、小乗の戒場を東大寺に建立せしかども、法華宗のことをば名字をも申し出ださせ給わずして入滅し了わんぬ。
その後、人王第五十代、像法八百年に相当たって、桓武天皇の御宇に、最澄と申す小僧出来せり。後には伝教大師と号したてまつる。始めには三論・法相・華厳・俱舎・成実・律の六宗ならびに禅宗等を行表僧正等に習学せさせ給いしほどに、我と立て給える国昌寺、後には比叡山と号す、ここにして六宗の本経・本論と宗々の人師の釈とを引き合わせ御らんありしかば、彼の宗々の人師の釈、依るところの経論に相違せること多き上、僻見多々にして、信受せん人、皆悪道に堕ちぬべしとかんがえさせ給う。その上、法華経の実義は、宗々の人々、我も得たり我も得たりと自讃ありしかども、その義なし。これを申すならば喧嘩出来すべし、もだして申さずば仏誓にそむきなんとおもいわずらわせ給いしかども、終に仏の誡めをおそれて桓武皇帝に奏し給いしかば、帝このことをおどろかせ給いて、六宗の碩学に召し合わさせ給う。
彼の学者等、始めは慢幢山のごとし。悪心毒蛇のようなりしかども、終に王の前にしてせめおとされ、六宗・七寺、一同に御弟子となりぬ。例せば、漢土の南北の諸師、陳殿にして天台大師にせめおとされて御弟子となりしがごとし。これはこれ円定・円慧ばかりなり。その上、天台大師のいまだせめ給わざりし小乗の別受戒をせめおとし、六宗の八大徳に梵網経の大乗別受戒をさずけ給うのみならず、法華経の円頓の別受戒を叡山に建立せしかば、延暦円頓の別受戒は日本第一たるのみならず、仏
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(009)撰時抄 | 建治元年(’75) | 54歳 | 西山由比殿 |