169ページ
邪見の経」等云々。
漢より四百余年の末、五百年に入って、陳・隋二代に智顗と申す小僧一人あり。後には天台智者大師と号したてまつる。南北の邪義をやぶりて、「一代聖教の中には法華経第一、涅槃経第二、華厳経は第三なり」等云々。これ像法の前の五百歳、大集経の読誦多聞堅固の時にあいあたれり。
像法の後の五百歳は、唐の始め太宗皇帝の御宇に、玄奘三蔵、月支に入って十九年が間、百三十箇国の寺塔を見聞して多くの論師に値いたてまつりて、八万聖教・十二部経の淵底を習いきわめしに、その中に二宗あり。いわゆる法相宗・三論宗なり。この二宗の中に法相大乗は、遠くは弥勒・無著、近くは戒賢論師に伝えて、漢土にかえりて太宗皇帝にさずけさせ給う。この宗の心は「仏教は機に随うべし。一乗の機のためには三乗方便・一乗真実なり。いわゆる法華経等なり。三乗の機のためには三乗真実・一乗方便なり。いわゆる深密経・勝鬘経等これなり。天台智者等はこの旨を弁えず」等云々。しかも太宗は賢王なり。当時、名を一天にひびかすのみならず、三皇にもこえ五帝にも勝れたるよし四海にひびき、漢土を手ににぎるのみならず、高昌・高麗等の一千八百余国をなびかし、内外を極めたる王ときこえし賢王の第一の御帰依の僧なり。天台宗の学者の中にも頸をさしいだす人一人もなし。しかれば、法華経の実義すでに一国に隠没しぬ。
同じき太宗の太子・高宗、高宗の継母・則天皇后の御宇に、 法蔵法師という者あり。法相宗に天台宗のおそわるるところを見て、前に天台の御時せめられし華厳経を取り出だして、一代の中には華厳第一、法華第二、涅槃第三と立てけり。
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
---|---|---|---|
(009)撰時抄 | 建治元年(’75) | 54歳 | 西山由比殿 |