168ページ
師弟の遠近・得道の有無はすべて一分もみえず。これらは正法の後の五百年、大集経の禅定堅固の時にあたれり。
正法一千年の後は、月氏に仏法充満せしかども、あるいは小をもって大を破し、あるいは権経をもって実経を隠没し、仏法さまざまに乱れしかば、得道の人ようやくすくなく、仏法につけて悪道に堕つる者かずをしらず。
正法一千年の後、像法に入って一十五年と申せしに、仏法東に流れて漢土に入りにき。像法の前の五百年の内、始めの一百余年が間は漢土の道士と月氏の仏法と諍論して、いまだ事さだまらず。たとい定まりたりしかども、仏法を信ずる人の心いまだふかからず。しかるに、仏法の中に大小・権実・顕密をわかつならば、聖教一同ならざる故、疑いおこりて、かえりて外典とともなう者もありぬべし。これらのおそれあるかのゆえに、摩騰・竺蘭は、自らは知ってしかも大小を分けず権実をいわずしてやみぬ。
その後、魏・晋・宋・斉・梁の五代が間、仏法の内に大小・権実・顕密をあらそいしほどに、いずれこそ道理ともきこえずして、上一人より下万民にいたるまで不審すくなからず。南三北七と申して仏法十流にわかれぬ。いわゆる、南には三時・四時・五時、北には五時・半満・四宗・五宗・六宗・二宗の大乗・一音等、各々義を立てて、辺執水火なり。しかれども、大綱は一同なり。いわゆる「一代聖教の中には華厳経第一、涅槃経第二、法華経第三なり。法華経は、阿含・般若・浄名・思益等の経々に対すれば真実なり、了義経、正見なり。しかりといえども、涅槃経に対すれば無常教、不了義経、
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
---|---|---|---|
(009)撰時抄 | 建治元年(’75) | 54歳 | 西山由比殿 |