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わって、末法はなはだ近きに有り。法華一乗の機、今正しくこれその時なり。何をもってか知ることを得る。安楽行品に云わく『末世の法滅せん時』となり」。また云わく「代を語れば則ち像の終わり末の初め、地を尋ぬれば唐の東・羯の西、人を原ぬれば則ち五濁の生・闘諍の時なり。経に云わく『なお怨嫉多し。いわんや滅度して後をや』。この言、良に以有るなり」云々。
夫れ、釈尊の出世は住劫第九の減、人寿百歳の時なり。百歳と十歳との中間、在世五十年、滅後二千年と一万年となり。その中間に、法華経の流布の時二度あるべし。いわゆる、在世の八年、滅後には末法の始めの五百年なり。しかるに、天台・妙楽・伝教等は、すすんでは在世法華経の時にももれさせ給いぬ。退いては滅後末法の時にも生まれさせ給わず。中間なることをなげかせ給いて、末法の始めをこいさせ給う御筆なり。例せば、阿私陀仙人が悉達太子の生まれさせ給いしを見て、悲しんで云わく「現生には九十にあまれり。太子の成道を見るべからず。後生には無色界に生まれて五十年の説法の坐にもつらなるべからず。正像末にも生まるべからず」となげきしがごとし。
道心あらん人々は、これを見ききて悦ばせ給え。正像二千年の大王よりも、後世をおもわん人々は末法の今の民にてこそあるべけれ。これを信ぜざらんや。彼の天台座主よりも、南無妙法蓮華経と唱うる癩人とはなるべし。梁の武帝の願に云わく「むしろ提婆達多となって無間地獄には沈むとも、鬱頭羅弗とはならじ」と云々。
問うて云わく、竜樹・天親等の論師の中にこの義ありや。
答えて云わく、竜樹・天親等は内心には存ぜさせ給うとはいえども、言にはこの義を宣べ給わず。
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(009)撰時抄 | 建治元年(’75) | 54歳 | 西山由比殿 |