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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

 文の心は、第五の五百歳の時、悪鬼の身に入る大僧等、国中に充満せん。その時に智人一人出現せん。彼の悪鬼の入る大僧等、時の王臣・万民等を語らって悪口・罵詈、杖木・瓦礫、流罪・死罪に行わん時、釈迦・多宝・十方の諸仏、地涌の大菩薩らに仰せつけば、大菩薩は梵帝・日月・四天等に申しくだされ、その時、天変地夭盛んなるべし。国主等そのいさめを用いずば、隣国におおせつけて彼々の国々の悪王・悪比丘等をせめらるるならば、前代未聞の大闘諍、一閻浮提に起こるべし。その時、日月の照らすところの四天下の一切衆生、あるいは国をおしみ、あるいは身をおしむゆえに、一切の仏菩薩にいのりをかくともしるしなくば、彼のにくみつる一りの小僧を信じて、無量の大僧等・八万の大王等・一切の万民、皆、頭を地につけ掌を合わせて、一同に南無妙法蓮華経ととなうべし。例せば、神力品の十神力の時、十方世界の一切衆生、一人もなく娑婆世界に向かって大音声をはなちて、「南無釈迦牟尼仏・南無釈迦牟尼仏、南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経」と一同にさけびしがごとし。
 問うて云わく、経文は分明に候。天台・妙楽・伝教等の未来記の言はありや。
 答えて云わく、汝が不審逆さまなり。釈を引かん時こそ経論はいかにとは不審せられたれ。経文に分明ならば釈を尋ぬべからず。さて、釈の文経に相違せば、経をすてて釈につくべきか、いかん。
 彼云わく、道理至極せり。しかれども、凡夫の習い、経は遠し釈は近し。近き釈分明ならば、いますこし信心をますべし。
 今云わく、汝が不審ねんごろなれば、少々釈をいだすべし。天台大師云わく「後の五百歳、遠く妙道に沾わん」。妙楽大師云わく「末法の初め、冥利無きにあらず」。伝教大師云わく「正像やや過ぎ已