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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

河に逕由し児を抱いて渡る。その水漂疾なれども、放ち捨てず。ここにおいて、母子ついにともに没しぬ。かくのごとき女人は慈念の功徳もて命終の後梵天に生ず。文殊師利よ。もし善男子有って正法を護らんと欲せば○彼の貧女の恒河に在って子を愛念するがために身命を捨つるがごとくせよ。善男子よ。護法の菩薩もまた応にかくのごとくなるべし。むしろ身命を捨てよ○かくのごときの人、解脱を求めずといえども、解脱に自ずから至ること、彼の貧女の梵天を求めざれども、梵天に自ずから至るがごとし」等云々。
 この経文は、章安大師、三障をもって釈し給えり。それをみるべし。「貧人」とは、法財のなきなり。「女人」とは、一分の慈ある者なり。「客舎」とは、穢土なり。「一子」とは、法華経の信心、了因の子なり。「舎の主、駆逐す」とは、流罪せらる。「その産していまだ久しからず」とは、いまだ信じてひさしからず。「悪風」とは、流罪の勅宣なり。「蚊・虻」等とは、「諸の無智の人の、悪口・罵詈等するもの有らん」なり。「母子共に没す」とは、終に法華経の信心をやぶらずして頭を刎ねらるるなり。「梵天」とは、仏界に生まるるをいうなり。
 引業と申すは、仏界までかわらず。日本・漢土の万国の諸人を殺すとも、五逆・謗法なければ、無間地獄には堕ちず。余の悪道にして多歳をふべし。色天に生まるること、万戒を持てども万善をすすれども、散善にては生まれず。また梵天王となること、有漏の引業の上に慈悲を加えて生ずべし。今この貧女が子を念うゆえに梵天に生まるるは、常の性相には相違せり。章安の二はあれども、詮ずるところは子を念う慈念より外のことなし。念を一境にするは、定に似たり。専ら子を思うは、また慈