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詮ずるところは、天もすて給え、諸難にもあえ、身命を期とせん。身子が六十劫の菩薩の行を退せし、乞眼の婆羅門の責めを堪えざるゆえ。久遠・大通の者の三・五の塵をふる、悪知識に値うゆえなり。善に付け悪につけ、法華経をすつるは地獄の業なるべし。大願を立てん。日本国の位をゆずらん、法華経をすてて観経等について後生をごせよ、父母の頸を刎ねん、念仏申さずばなんどの種々の大難出来すとも、智者に我が義やぶられずば用いじとなり。その外の大難、風の前の塵なるべし。我日本の柱とならん、我日本の眼目とならん、我日本の大船とならん等とちかいし願いやぶるべからず。
疑って云わく、いかにとして汝が流罪・死罪等を過去の宿習としらん。
答えて云わく、銅鏡は色形を顕す。秦王験偽の鏡は現在の罪を顕す。仏法の鏡は過去の業因を現す。般泥洹経に云わく「善男子よ。過去にかつて無量の諸罪、種々の悪業を作るに、この諸の罪報は○あるいは軽易せられ、あるいは形状醜陋、衣服足らず、飲食麤疎、財を求むるに利あらず、貧賤の家・邪見の家に生まれ、あるいは王難に遭い、および余の種々の人間の苦報あらん。現世に軽く受くるは、これ護法の功徳力に由るが故なり」等云々。
この経文、日蓮が身にあたかも符契のごとし。狐疑の氷とけぬ。千万の難も由なし。一々の句を我が身にあわせん。「あるいは軽易せらる」等云々。法華経に云わく「軽賤憎嫉」等云々。二十余年が間の軽慢せらる。「あるいは形状醜陋」、また云わく「衣服足らず」、予が身なり。「飲食麤疎」、予が身なり。「財を求むるに利あらず」、予が身なり。「貧賤の家に生まる」、予が身なり。「あるいは王難に遭う」等、この経文、人疑うべしや。法華経に云わく「しばしば擯出せられん」。この経文に云わく
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(005)開目抄 | 文永9年(’72)2月 | 51歳 | 門下一同 |