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人もなし。誰をか法華経の行者とせん。
寺塔を焼いて流罪せらるる僧侶はかずをしらず。公家・武家に諛ってにくまるる高僧これ多し。これらを法華経の行者というべきか。
仏語むなしからざれば、三類の怨敵すでに国中に充満せり。金言のやぶるべきかのゆえに、法華経の行者なし。いかんがせん、いかんがせん。
そもそも、たれやの人か衆俗に悪口・罵詈せらるる。誰の僧か刀杖を加えらるる。誰の僧をか法華経のゆえに公家・武家に奏する。誰の僧か「しばしば擯出せられん」と度々ながさるる。日蓮より外に日本国に取り出ださんとするに人なし。
日蓮は法華経の行者にあらず。天これをすて給うゆえに。誰をか当世の法華経の行者として仏語を実語とせん。仏と提婆とは身と影とのごとし。生々にはなれず。聖徳太子と守屋とは蓮華の華菓同時なるがごとし。法華経の行者あらば、必ず三類の怨敵あるべし。三類はすでにあり。法華経の行者は誰なるらん。求めて師とすべし。一眼の亀の浮き木に値うなるべし。
ある人云わく、当世の三類はほぼ有るににたり。ただし法華経の行者なし。汝を法華経の行者といわんとすれば、大いなる相違あり。この経に云わく「天の諸の童子は、もって給使をなさん。刀杖も加えず、毒も害すること能わじ」。また云わく「もし人、悪み罵らば、口は則ち閉塞せん」等。また云わく「現世安穏にして、後に善処に生ぜん」等云々。また「頭破れて七分に作ること、阿梨樹の枝のごとくならん」。また云わく「また現世において、その福報を得ん」等。また云わく「もしまた
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(005)開目抄 | 文永9年(’72)2月 | 51歳 | 門下一同 |