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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

の頭に甲冑をよろうをさすべきか。園城寺の五分法身の膚に鎧杖を帯せるか。彼らは、経文に「納衣にして空閑に在り」と指すにはにず、「世の恭敬するところとなること、六通の羅漢のごとくならん」と人おもわず、また「転た識り難きが故に」というべしや。華洛には聖一等、鎌倉には良観等ににたり。人をあだむことなかれ。眼あらば、経文に我が身をあわせよ。
 止観の第一に云わく「止観の明静なることは、前代にいまだ聞かず」等云々。弘の一に云わく「漢の明帝、夜夢みしより陳朝に洎ぶまで○禅門に予かり廁わって、衣鉢伝授する者」等云々。補注に云わく「衣鉢伝授とは、達磨を指す」等云々。止の五に云わく「また一種の禅人乃至盲・跛の師・徒、二りともに堕落す」等云々。止の七に云わく「九つの意、世間の文字の法師と共ならず。また事相の禅師と共ならず。一種の禅師はただ観心の一意のみ有り。あるいは浅く、あるいは偽る。余の九つは全く無し。これ虚言にあらず。後賢、眼有らん者は、当に証知すべきなり」。弘の七に云わく「『文字の法師』とは、内に観解無くしてただ法相のみを構う。『事相の禅師』とは、境智を閑わずして鼻隔に心を止む乃至根本有漏定等なり。『一師はただ観心の一意のみ有り』等とは、これはしばらく与えて論をなす。奪えば則ち観解ともに闕く。世間の禅人はひとえに理観を尚ぶ。既に教を諳んぜざれば、観をもって経を消し、八邪八風を数えて丈六の仏となし、五陰三毒を合して名づけて八邪となし、六入をもって六通となし、四大をもって四諦となす。かくのごとく経を解するは偽の中の偽なり。何の浅きをか論ずべけん」等云々。止観の七に云わく「昔、鄴・洛の禅師、名は河海に播き、住するときんば四方雲のごとくに仰ぎ、去るときんば阡陌群を成し、隠々轟々たり。また何の利益か有る。臨終