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機、今正しくその時なり。何をもってか知ることを得る。安楽行品に云わく『末世の法滅せん時』となり」等云々。恵心云わく「日本一州、円機純一なり」等云々。
道綽と伝教と、法然と恵心と、いずれこれを信ずべしや。彼は一切経に証文なし。これは正しく法華経によれり。その上、日本国一同に叡山の大師は受戒の師なり。何ぞ、天魔のつける法然に心をよせ、我が剃頭の師をなげすつるや。法然智者ならば、何ぞこの釈を選択に載せて和会せざる。人の理をかくせる者なり。第二の「悪世の中の比丘」と指さるるは、法然等の無戒・邪見の者なり。
涅槃経に云わく「我らことごとく邪見の人と名づく」等云々。妙楽云わく「自ら三教を指して、皆邪見と名づく」等云々。止観に云わく「大経に云わく『これよりの前は我ら皆邪見の人と名づく』となり。邪あに悪にあらずや」等云々。弘決に云わく「邪は即ちこれ悪なり。この故に当に知るべし、ただ円を善となす。また二つの意有り。一には順うをもって善となし、背くをもって悪となす。相待の意なり○著するをもって悪となし、達するをもって善となす。相待・絶待ともにすべからく悪を離るべし。円に著するすら、なお悪なり。いわんやまた余をや」等云々。
外道の善悪は、小乗経に対すれば皆悪道。小乗の善道、乃至四味三教は、法華経に対すれば皆邪悪。ただ法華のみ正善なり。爾前の円は相待妙。絶待妙に対すればなお悪なり。前三教に摂すればなお悪道なり。爾前のごとく彼の経の極理を行ずる、なお悪道なり。いわんや、観経等の、なお華厳・般若経等に及ばざる小法を本として法華経を観経に取り入れて、還って念仏に対して閣抛閉捨せるは、法然ならびに所化の弟子等・檀那等は誹謗正法の者にあらずや。
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(005)開目抄 | 文永9年(’72)2月 | 51歳 | 門下一同 |