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儒家の孝養は今生にかぎる。未来の父母を扶けざれば、外家の聖賢は有名無実なり。外道は過・未をしれども父母を扶くる道なし。仏道こそ父母の後世を扶くれば、聖賢の名はあるべけれ。しかれども、法華経已前等の大小乗の経宗は、自身の得道なおかないがたし。いかにいわんや父母をや。ただ文のみあって義なし。今、法華経の時こそ、女人成仏の時悲母の成仏も顕れ、達多の悪人成仏の時慈父の成仏も顕るれ。この経は内典の孝経なり。二箇のいさめ了わんぬ。
已上、五箇の鳳詔におどろきて、勧持品の弘経あり。明鏡の経文を出だして当世の禅・律・念仏者ならびに諸檀那の謗法をしらしめん。
日蓮といいし者は、去年九月十二日子丑時に頸はねられぬ。これは魂魄、佐土国にいたりて、返る年の二月、雪中にしるして有縁の弟子へおくれば、おそろしくておそろしからず。みん人いかにおじぬらん。これは釈迦・多宝・十方の諸仏の未来日本国当世をうつし給う明鏡なり。かたみともみるべし。
勧持品に云わく「ただ願わくは慮いをなしたまわざれ。仏滅度して後、恐怖悪世の中において、我らは当に広く説くべし。諸の無智の人の、悪口・罵詈等し、および刀杖を加うる者有らん。我らは皆当に忍ぶべし。悪世の中の比丘は、邪智にして心諂曲に、いまだ得ざるを謂って得たりとなし、我慢の心は充満せん。あるいは阿練若に納衣にして空閑に在って、自ら真の道を行ずと謂って、人間を軽賤する者有らん。利養に貪著するが故に、白衣のために法を説いて、世の恭敬するところとなること、六通の羅漢のごとくならん。この人は悪心を懐き、常に世俗の事を念い、名を阿練若に仮りて、
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(005)開目抄 | 文永9年(’72)2月 | 51歳 | 門下一同 |